ニューロンの室礼

日々思ったことを整理するための、ごく汎用なブログです。

「ヴィクトリア」

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ヴィクトリア


 2015年、ドイツの映画。監督はセバスチャン・シッパーです。
 この映画の注目するところは、その撮影方法にあるのですが、それを書く前に、前回書いた「ロープ」の撮影方法を説明した方が面白いと思うので、そちらから書きます。
 
 「ロープ」の制作当時は、物理的に10分以上連続しての撮影が不可能でした。どうしてもフィルムを交換しないといけなかったのです。そのため、最長でも必ず10分経つ前にカットシーンが入ります。ヒッチコックはそのシステムを変えたかったのか、10分以上ノーカットの作品を制作します。それが「ロープ」でした。もちろん、ノーカットといっても物理的に無理矢理10分以上撮ることは不可能なので、視聴者には気付かれずにノーカット“っぽく”工夫して撮影しているわけです。その方法は、かなり単純というか、実にシンプル且つ画期な方法だと思います。「なんだそんなことか」と思うかもしれませんが、下手に実行するとカットしていることがバレバレで、陳腐な出来になってしまう気がします。
 その方法を文字で説明するのはかなり難しいので伝わるか不安ですが、できるだけ具体的に書いていこうと思います。
 9分くらいまでは普通に撮影します。9分50秒ぐらいになると、カメラがおもむろに登場人物もしくは壁に近づいていきます。そして9分59秒。ぴったりとレンズを対象に密着させます。そのため、画面が真っ暗になります。そして10分1秒か2秒後、カメラはおもむろに対象から離れて、撮影を再開させます。
 この一連の流れの中で、画面が真っ暗になった瞬間にカットが入ります。フィルムを交換して、レンズが対象に密着している状態から撮影再開。こうすると、さりげなくカメラを移動させただけで自然とノーカットになっているように見せることができます。
「ロープ」はこのようにして撮影されました。

 「ヴィクトリア」の撮影方法は、「ロープ」とは正反対の方法だと思います。正反対ということは、カットし放題なのか。というと、そうではありません。
 「ヴィクトリア」が制作されたのは2015年。ごく最近です。映画の撮影方法なんて大昔から星の数ほど確立されてきました。そして2015年がきます。監督は何を思ったか、全編ノーカットで撮影に挑みました。しかも2時間の長回しです。
 つまり、「はい、スタート」でクランクイン。「はい、カット」でクランクアップ。その二言で「ヴィクトリア」は完成しました。厳密には途中で何度も「カット。もう一度。」の声があったと思います。撮り直しはもちろん最初のシーンから……。時間的にも、繰り返し撮影ができるわけではありません。一番大変なのはカメラマンでしょう。カメラは一台しかありません。一人のカメラマンが、登場人物を追い続けます。とんでもない緊張状態の中で撮影された作品でしょう。体力も必要です。そのため、エンドロールではカメラマンの名前が一番最初に表示されています。
 
「ロープ」とは何が正反対なのか。ヒッチコックは「カットしなければならない」という制約を破りたかった。そして、ノーカット(に見える)映画を工夫して作ります。
「ヴィクトリア」には、なんの制約もありません。どんな撮影もやりたい放題。カットしたって構いません。後でいくらでも加工して魅せることができる技術があります。しかし、監督はあえてその自由を制約しました。全編ノーカット、カメラは一台だけ。
 同じノーカットでも、ヒッチコックは制約を飛び越え、セバスチャンは己に制約を課しました。そこが正反対なのでは。と思います。

 特徴的な撮影方法にしては、意外と動きがある物語です。起承転結もはっきりしていて、カットが多用されている“普通の”映画と比べてもあまり遜色はありません。マフィアは出てくるわ、警察との銃撃戦はあるわ……。
 途中で銀行を急襲する場面もあります。しかし、主人公であるヴィクトリアは車の中で待っているだけです。仲間が銀行から逃げてくるまで、ただ待っているだけ。一台だけあるカメラは主人公の背中を中心に追いかけます。そのため、ただ待っているだけのヴィクトリアを撮り続けます。仲間のことを想い、無事に逃げ切れることを願い、ただ不安げに待っているヴィクトリアの息遣いや仕草を静かに撮り続けます。
 途中からノーカットの存在を忘れて、物語に没頭してしまいました。こんなに没入感のある映画は、個人的にあまり知りません。(私はあまり映画に詳しい方ではないのですが。)それはひとえにノーカットのおかげだと思います。カットが多用されている映画は、場面が切り替わったり、複数のカメラを使って同時に撮影したりすることで演出の材料にしていますが、この映画はノーカットです。従来の“普通の”映画なら、長い沈黙のシーンや、登場人物がただ待っている時間、深みがない世間話、くだらない話、そういった現実味の極致を切っていくことでバランスよく成り立っているわけですが、「ヴィクトリア」は違います。この作品は、映画であり、映画ではないのかもしれません。ホームビデオではなく、ドキュメンタリーでもありません。完全なるフィクションですが、一見必要性のないシーンが長く続けば続くほど、フィクションがノンフィクションへと変化していくように感じました。冒頭のくだらない世間話が後に、「あぁ、マフィアってこんな感じなんだ」と錯覚させる説得力になりました。まんまとノーカットの罠にはまってしまったわけです。そして、カメラのレンズが私の目そのものへと変化していきました。「ヴィクトリア」はそういう作品だと思います。
 

  

 

「ロープ」

 

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ロープ


1948年、アメリカ。
アルフレッド・ヒッチコックの作品です。

「ロープ」は、撮影方法が実験的で話題に上ることが多いですが、私は物語そのものに惹かれます。殺人犯の思想と探偵役の思想が似ているようで、全く違うのです。この二人のやりとりには見応えがあります。

古畑任三郎」や「刑事コロンボ」と同じく、冒頭で殺人が起こり、視聴者だけが殺人犯を知っている。現場に現れた探偵がどのようにトリックを解き明かし、犯人にたどり着くか。という、倒叙ミステリーになっています。しかし、この作品にはトリックらしいものはありません。どちらかというと人物劇というか、登場人物の設定や仕草に魅力があると思います。
 
 ここからはネタバレが含まれます。
 犯人はブランドンとフィリップの二人組。有名な大学を出ている知的な二人組です。彼らはその日の夜、休暇へ出かける予定です。ピアニストであるフィリップの演奏旅行も控えており、田舎でゆっくりしようということでした。午後から、彼ら二人組の送別会が行われます。そして、彼らは殺人を犯します。ロープで首を絞めます。
 ブランドンは、ニーチェの「超人理論」を元にした思想を持っています。優秀な人間は道徳を超越しているから、殺人を犯しても良い。道徳的観念は劣った凡人の為のものだから、自分は殺人を犯しても良い。それは芸術のようなものだ。と、奢ります。
 一方、フィリップの方は、ブランドンにそそのかされた全くの凡人です。殺人を犯してしまった。捕まらないか、バレやしないか、不安でしょうがない。といった様子で怯えています。
 この人物設定に大きく惹かれます。ブランドンは知的で自信屋。そんな男が、自分は優れていることを証明する為だけに、殺人を犯してしまう。なかなかの狂人です。こういう男が悪役の作品は見応えがあって、個人的に好きですね。そして、普通の思考を持つフィリップとの対比がよく表れています。スーツの色も濃紺色と臙脂色で対比されています。(多分。)
 殺された人物はデイビッドという男で、二人組と同じ大学の友人です。ブランドン曰く「彼は劣っているから、我々の被害者になった」そうです。
 ブランドンはデイビッドの遺体を部屋の真ん中の大きなチェストに放り込みます。チェストの鍵は壊れています。開けられたらおしまいです。フィリップは、怖くて仕方がありません。しかしブランドンは、デイビッドが使っていたグラスを手に取り光悦な表情を浮かべます。
 あろうことかブランドンは、デイビッドの遺体が入ったチェストの上で送別会をしようと言い出します。意気揚々とチェストの上に料理を運ぶブランドン。その様子をビクビクしながら見ているフィリップ。
 そうこうするうちに客人達がやってくる時間です。訪ねてきたのは手伝いのおばさん、デイビッドの父親、デイビッドの婚約者、デイビッドの友達……。彼らは、デイビッドの遺体が入ったチェストの上で食事をしながら談話に花を咲かせます。ブランドンもカラカラと笑いながら談話に加わります。それを遠目から不安な様子で眺めているフィリップ……。とんでもない構図です。
 調子に乗ったブランドンは、客人達にデイビッドのことをあれやこれやと言いふらします。そのうちに客人達は、おかしいな。と思い始めます。どうしてそんなにデイビッドのことに詳しいのか。その日のうちにデイビッドにあったのか。そういえばデイビッドはいつになったら送別会に現れるのか……。客人の一人はブランドンに問い詰めますが、彼ははしゃぎながら冗談ばかり言っています。彼は誤魔化すのもうまいのです。
 
 そこに探偵役の登場です。ジェームズ・スチュワート演じるルパートです。知的なことはもちろん、ユーモアがあり、頭が切れます。渋くていい男です。彼は、二人組が大学生の頃に世話になった舎監で、いわば彼らの先生です。特にブランドンは彼に大きな影響を受けています。実はルパートもブランドンと同じく「超人理論」を元にした独自の解釈を持っています。
 ルパートも加わりますます盛り上がる送別会。ブランドンはしきりに「超人理論」を熱弁します。ルパートも否定はしません。客人達は彼らの思想についていけません。
 ルパートは違和に気づきます。始終ビクビクしているフィリップ。いつも以上に興奮しているブランドン。いつになっても姿を見せないデイビッド。明らかにおかしい。
 面白いことに、それまでカリスマ的な存在だったブランドンが、ルパートと対峙すると急に小物臭く思えてくるのです。ルパートから見れば、ブランドンも何かに怯えているように見えたのでしょう。他の人間は騙されても、ルパートは騙されません。ルパートは客人達にこっそりと探りを入れていきます。

 送別会が終わり、ルパートも含めた客人達は一旦帰ります。大満足のブランドン。ほっとするフィリップ。そこに一本の電話。ルパートです。
 タバコ入れを忘れた“ふり”をしたルパートは現場に戻ってきたのです。何かがおかしい。彼は静かに確信を突いていきます。あくまでも証拠がない疑いとして……。
 観念した二人組は、ルパートにデイビッドの遺体を見せます。ブランドンはルパートに食ってかかります。しかし、ルパートはあっさりと彼の思想を論破します。なんの権利があって自分を優れた人間だと決めつけたのか。と。

「君には殺人を実行させた何かがあった。僕には実行させない何かがある。」

 至極まっとうな意見です。結局は、自分が優れていることを証明するために殺人を犯した時点で、一番劣った人間であることを証明してしまった。ということでしょうね。ただの歪んだ快楽殺人です。本当の「超人理論」はそういうことではないのでしょう。
 私は、この最後の二人のやりとりがすごく魅力的だと思います。思想と思想のぶつかり合い。とても見応えがあるし、考えさせられます。
 最後のシーンにはもう一つ魅力があります。それは構図です。真ん中に象徴的にチェストが置かれ、その周りに、疲れ切った探偵役、殺人を犯した狂人、狂人にそそのかされた情けない男の3人がそれぞれ茫然と佇んでいる。沈黙。外からパトカーのサイレンが聞こえてくる。そして幕が下りる。素晴らしい。

「青いパパイヤの香り」

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青いパパイヤの香り


青いパパイヤの香り」という映画を観ました。
買ったのは3年くらい前です……。ずっと放置してました。
 この映画について書いていこうと思います。
 

 監督はトラン・アン・ユン。村上春樹の「ノルウェイの森」を映画化した人で有名だと思います。
 舞台は1951年のベトナムサイゴン
主人公のムイは使用人として、ある商家へ働きに出てきた10歳の少女です。
やがて、ムイはある青年に恋をして……
というあらすじです。
 最初から最後まで、これでもかというほどのアジアンテイスト。シタールのような音色と共に当時のベトナムの市井が描かれています。
 物語は実にゆっくりと進んでいきます。この映画の登場人物はほとんどセリフを喋りません。カメラもゆっくりと舐めるように人物を追います。しかも、窓枠を通して家の外から静かに見守っているような動きです。
 ここからはネタバレを含みます。
 
 ムイが奉公にきた商家は、表面上は穏やかで何事もなく日々が過ぎて行く平和な家なのですが、実は過去に色々と暗いことがあり、それを今でも引きずっている人間が暮らしている、ある意味「普通」の一家です。
 その中で、ムイだけは時間の流れがその一家とは違うような、世界が違うような印象を受けます。というのも、ムイだけ始終ニコニコしていて、知らぬ存ぜぬという感じなのです。別にムイが他人と距離を置いているというわけではなくて、ただ、時間の流れが違うというか、ムイはムイで日々の暮らしを大切に生きている印象を受けるのです。
 その一家の子供たちは甘やかされて育ち、夏休みということもあって一日中暇を持て余しています。彼らは、蟻を殺したり、小さな爬虫類をいたずらの材料に使ったりして、子供特有の残酷で人間臭い一面が垣間見えます。しかし、ムイは違います。笑顔で蟻の様子を見守り、危害は加えません。まるで、人間である自分と同等の存在であるかのように大切に扱います。その目はキラキラと輝いていて純粋そのものです。
 ムイは小さいながら聡明で、純粋で、健気に日々を生きる凛とした女性として描かれています。そして、ムイは恋をします。商家の長男の友人で、クェンという青年です。
 
 時は変わって10年後、不景気の煽りで、商家はムイをクェンの家の使用人として出すことにします。クェンはフランスで音楽を学び、卒業した後、新進気鋭の作曲家になってベトナムへ戻ってきていました。金持ちです。恋人もいました。
 クェンに恋人がいてもムイはめげません。というか、何も気にしていないようです。クェンのためにテキパキと働きます。
 大人になってからのムイは美しい女性として登場します。時間の流れが他人と違うような印象は、少女の頃のまま残っています。そして、大人になってからのムイにはもう一つ新たな特徴があります。別の生物をイメージさせるのです。口数の少なさや、始終ニコニコしている様子から、感情があまり読めず、そこに首の動きが相まって、まるで爬虫類のように見えます。それは決して悪い意味ではなく、人間の俗物的なものが全くない元気ハツラツとした小動物のような印象を受けるのです。
 クェンは、もともと付き合っていた恋人よりもムイに惹かれていき、やがてムイと結ばれます。ラストシーンで、クェンの子供を宿したムイが詩の朗読をします。その詩の最後の一説はムイそのものを表しているようです。

「たとえ水がうねり逆巻いてもーー桜の木は“りん”とたたずむ」

 ムイを通して、女性の芯の強さが描かれていますが、その描き方はしつこくありません。全体的に穏やかな雰囲気の映画ということもあるし、ムイだけを見ていると、その「強さ」に気付きにくいのですが、他の登場人物を通して見ると間接的にムイの内なる芯の硬さが静かに伝わってくるような気がします。